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プレセミナー第3回

「Beyond Tokyo 2020: ロンドンに学ぶオリンピック・レガシーの軌跡」

2019年9月4日(水)開催
六本木アカデミーヒルズ オーディトリアム
登壇者
Richard Brown
特別講演者リチャードブラウン
センター・フォー・ロンドン
(Centre for London)
リサーチディレクター
Kazuya Yamazaki
インタビュアー山嵜 一也
建築家
山嵜一也建築設計事務所代表
Hiroo Ichikawa
主催者市川 宏雄
明治大学名誉教授/
帝京大学特任教授/
森記念財団理事

リチャード・ブラウン氏 特別講演

ブラウン

ロンドンのオリンピック・レガシー、特に選手村とオリンピックパークの変貌を語るうえで、まずオリンピックの招致過程と大会開催までの数年間におけるロンドンの状況を把握することが重要だ。

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ロンドンは1980年代半ばにかけて衰退し、人口は長期にわたる下落傾向に転じた。こうした下落の背景には、1960年代から70年代における首都から産業と人を転出する政策や大都市の外への移住傾向などがあげられる。


この逆が、金融サービス業や文化再生、国境開放によりもたらされ、ロンドンの人口は850万人を上回り、2040年までに1000万人に達する見込みである。市長による「London Plan」において、こうした成長に取り組むロンドン市の戦略が発表され、かつての港湾地区や工業地域東部にあたるリー渓谷下流やテムズ・ゲートウェイが再開発の主な対象地域となった。


2005年当時、この対象地域は英国において代表的な貧しい地域だったものの、4つの異なる行政区をまたいでおり、責任機関が欠如していたために、課題に取り組むのは困難だった。もうひとつの課題は、19世紀の公害防止法により汚染産業をリー渓谷下流に追いやったことだ。


こうした問題にかかわらず、人々が庭で野菜を育て、打ち捨てられた工業施設でアーティストがアトリエを開くなど独自の文化が息づいている。つまり、遺棄された場所でありながら関心は集めており、新たな住民増加につながった。こうしたことが、リー渓谷下流をオリンピック会場とする決断に影響した。オリンピックは、東ロンドンに対する政府の関心、投資、振興を促す触媒であった。


2012年ロンドンオリンピックの最終選考では三原則を設けた。第一に大会はコンパクトであること。試合に遅れることのないよう、選手は会場のできる限り近くに留め置かれた。第二に、大会では公共交通を重点的に用い、ロンドンに交通輸送が集積するのをさけた。移動に関しては、ロンドン―パリ間の高速鉄道が、ロンドン中心のセントパンクラスからオリンピックパークまで約7分間で人々を輸送した。第三に、最も重要な点は、投資や再建を要している町で大会を開催し、地域を変えたことだ。


2008年に始まったオリンピックとレガシーマスタープランでは、すべての会場に、大会終了後の再活用か、あるいは大会期間中のみの仮設建設か、いずれかの計画が必須となった。つまり、会場施設は大会終了後に撤去されるか、開発地区として切り替えられ、新規住宅を建てるか、あるいは公園に作り替えられ、より広大な緑地を生みだすこととなった。こうしたアイディアのおかげで、ロンドンオリンピックの招致は成功した。


計画が整い、大会はどのように実施されたのだろうか?シドニーオリンピックから得た知見は、異なる実行委員会や行政団体は、著しく異なる意見を生みだし、結果的に議論と解散を引き起こした。こうした事態を防ぐべく、行政とロンドン市長、イギリスオリンピック委員会、国際オリンピック委員会から成る委員会が設立され、仲裁や計画合意、全てが計画通り進んでいるかを確認する場となった。


政府はそこで大会の会場建設のため、オリンピック会場設立委員会を設置した。同時にロンドン市長と国際オリンピック委員会は、ロンドン組織委員会を設立し、彼らが催しの担当者となった。こうして異なる責任を担う二団体が一緒になった。2012年にロンドンレガシー開発公社(LLDC)が設立され、大会終了後の公園と会場を受け持ち、レガシーとして変貌させることになった。


こうした体制の成功は二つの観点で明らかとなった。第一に、ロンドン市長と政府が変わってもなお体制は維持された点、そして第二に、二つの組織間でほとんど諍いがなかった点だ。


2006年から2007年にかけて会場建設がはじまり、ほとんどが民間施工業者によって設計され、公共団体の指示のもと、民間組織によって融資され、実際の設計と建設が行われた。ロンドン市は会場場所を大会のためにリースバックし、その後は商業的に運営するつもりだった。


しかし2007年の金融危機で、公共部門はこうした事業の遂行を自らやらねばならなくなった。幸いにも、不測の事態に備えて予算には余裕があった。全てが2012年7月27日までに遂行されねばならず、この具体的な日付があったからこそ行政は迅速に行動し、人々は協力しあったのだ。

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大会終了後も、会場と設備の解体にはじまり、仮設会場の処分やそのまま残される施設の改装など、着手すべき改造事業があった。これこそがLLDCの役割だった。


こうした大会後の会場施設に関する事業に加え、それらが位置する一帯地域も重要な要素であった。会場間とその周辺は空き地が点在していた。2007年から2008年にかけて、ロンドン開発公社とLLDCは、アライズ・アンド・モリソン・アーキテクツと共にレガシーマスタープラン構成に携わり、オリンピックパークの将来像を考えた。住宅は本計画における最重要課題で、オリンピックパーク周辺の大規模な区画に12,000戸建設し、公園自体を訪れる人々にとって中心的なアトラクションに据えるようにした。


第一の課題は、会場を再開することで、公園と会場のほとんどを2014年4月までに再開することを目標とした。これは計画通り実行された。スタジアムは、いくつか困難があったものの、遅れて2016年にオープンした。


異なる会場施設と現在の用途についてだが、例えば会期中様々な競技に使用されたカッパー・ボックス・アリーナは、多用途の会場として使われている。バスケットボールからボクシングの試合にはじまり、新製品発表会からファッションショーにまで対応でき、車いすラグビー選手権を催したこともある。2013年に再開してから200万人以上の観客が訪れた。


ザハ・ハディッドによる美しい水泳センターは、オリンピック大会というよりも、まさしくレガシーのために生み出された建造物だ。会期中は、観客席として見苦しい翼がつけられたが、終了後には取り外された。以来、センターは低価格の市民プールとして堅調に運営されている。飛び込み世界選手権や2016年のヨーロッパ水泳選手権、そして2019年には世界パラ水泳選手権大会が開催された。


選手村は結局公的資金で建設され、2011年に売却された。ここはロンドンでも稀な場所で、なぜなら全体の50%がアフォーダブルハウジングとして割り当てられた、賃貸目的の開発であったためだ。建物はオープン当初から満室で、公園内で最初の住宅地域となった。


競技場建設の背景はより複雑で、オリンピック開催都市にとって重要な教訓がいくつかある。2006年頃は、大会終了後、より小規模な競技場か、あるいはいずれサッカーのプレミアリーグのように大勢の観客を惹きつけるイベントのために、より大型に改築する、という二通りを検討していた。


もともと試合観戦のため80,000席に拡張することを検討していたが、やがて陸上競技とサッカーのロウワーリーグ大会用に25,000席に減らした。しかしながら、新しく着任したLLDC最高責任者は、陸上競技やほかの催しで年に二回しか利用されない25,000席の競技場に異を唱えた。そんなことをしたらオリンピックパークの中心にデッドゾーンが生まれるからだ。彼女は競技場の通年利用につながるサッカークラブ招致に意欲的だった。


そこで、サッカークラブ獲得のための探求がはじまったが、法的課題に直面した。欧州連合競争法のもとでは、公有資産を民間企業に市場価格以下で売るのは、国による不当な助成にあたるためだ。そのため二回目の入札過程にうつり、オーナーシップはLGCCとGLA(大ロンドン庁)が保持したまま、競技場に入居してくれるテナントを探した。結果的な入札者はウェストハム・ユナイテッドFCとイギリス陸上競技連盟だった。


競技会場としてのスタジアムは、2015年のラグビーワールドカップと2017年の世界陸上競技選手権大会および世界パラ陸上競技選手権大会を開催し、非常に順調だが、莫大な改修費がかかった。またオリンピック期間はケータリングや手洗い設備、サービス設備を野外テントに備え付けていたため、それらを全て競技場内に含めねばならなかった。サッカーシーズンにはフィールドにより近づけるよう、格納シートが導入された。また英国の不安定な天候を憂慮して、屋根も追加された。つまり、競技場自体の活用は成功だったが、それに至るまでにかなりの時間を要し、遠回りだった。また当初から、前述の設備が施設内につくられていたら、節約になっただろう。


もうひとつ物議を醸した会場施設は、元広報・報道センターだ。基本的に、高性能のIT接続が施された小屋だが、オリンピック会期中はTVスタジオとしてしか使用されなかった。施設の取り壊しについて検討が重ねられ、幸いなことに、DelanceyとInfinity SDCによる合弁事業と取引し、元工業地帯でアーティストやクリエイターが集まるハックニーウィック端に、新しいタイプのキャンパスをつくることになった。


「Here East」(ヒアイースト)と呼ばれるキャンパスは、5000もの雇用を創出し、BTスポーツ(TV局)や二つの大学がキャンパスを移設したほか、世界的なイノベーションセンターであるPlexalが居を構え、またフォード・モーター・カンパニーは自動運転車の試験をおこなっている。様々な事業やワークショップが豊かに混ざり合い、まさにクリエイティビティの中核的存在になりつつある。


最後に、公園自体も二つの相反する性質を兼ね備え、非常に優れたデザインの空間だ。サウスパークは広大でにぎやかな市民空間だ。サッカーファンが毎週土曜日に集まってくる。ノースパークはより自然に満ちており、川沿いにしなやかにうねった景観を有している。


我々の課題は常に、長らく訪問者数の減少に苦しんできた公園に、人々を惹きつけるかということだった。しかしすでに訪問者数は増加している。公園自体はクイーン・エリザベス・オリンピック・パークと名付けられ、無論これはオリンピック遺産とともに、2012年の女王戴冠60周年を祝すものだった。エリザベス女王とオリンピックという二大ブランドがひとつの名前となったのだ。


レガシーマスタープラン構成は、大会の開催年である2012年に建築許可を得て、新たに5つの地域を提案した。2012年までに複数の変更もあり、例えばボリス・ジョンソンとLLDCの新しい部長は、高密度の住宅が集まった大規模区画の建設は、ロンドン向きのやり方ではないとの考えを表明した。


東ロンドンの課題のひとつは、居住者の暮らし向きがよくなり、家族を持つと、地域から出ていくようになることだった。この地域には家族向けの住宅やサービスが乏しいためだ。我々がこの地域に供給したかったのは住宅で、それによって住民を留めようとした。


ボリス・ジョンソン市長は、単に住宅を建てるのは十分ではないと感じていた。むしろロンドンにおける市民貢献に近いものを生みだそうとしていた。そこで先例を参照しはじめたのだが、その一例が1851年の万国博覧会だ。ヴィクトリア&アルバート博物館にはじまり、ケンジントン地区は教育と文化の中心地へと変貌を遂げた。もう一つの先例が、1951年のフェスティバル・オブ・ブリテンで、戦後の楽天主義におけるモダニズムを称賛した。その際ロイヤル・フェスティバル・ホールを残し、テムズ川の南岸に、全く新しい文化地区を作ろうとした。


ここで浮上した問いは、同様のことが東ロンドンでは何をもってしてできるかということだった。ロンドン大会の成功の象徴の一つは、ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)、ロンドン芸術大学 (UAL) 、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション、BBC、サドラーズ・ウェルズがパートナーになったことだ。新しい文化と教育、パフォーマンス、エンジニアリングの区域をオリンピックパークの一端につくるという考えは、リー川の東岸に実現され、新たな集積地を生みだした。


具体的には、複数の場所で実現した。「Here East」のある北部には、ウェイン・マクレガーのダンススタジオとリハーサルスペース、そしてV&Aの収蔵スペースができる。また南部には、UCL Eastという、東ロンドンにおけるUCLの新キャンパスが生まれる。ストラトフォード河岸で最も顕著な要素は、サドラーズ・ウェルズやBBCミュージック、V&Aのようなパフォーマンス拠点と、UALやロンドン・カレッジ・オブ・ファッションのネットワークだ。

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image from : London Legacy Development Corporation


これがオリンピックパークの現状だ。その用途は拡大しており、新しい事業の集合体が周辺地域に集まりつつある。


より広範なレガシー事業として、政府は大会招致が決定した際に5つの取り組みを打ち出した。第一に英国を世界有数のスポーツ国家にすること。第二に住民たちのために東ロンドンを変革すること。第三に若い世代がより社会に関わり、率先して携わるように鼓舞すること。第四にオリンピックパーク計画をサステナブルな生活のビジョンとすること。そして最後に、英国を、住まい、働き、事業を行うのに最適な場所で、クリエイティブで包括的、かつ友好的な国として披露することだった。


スポーツへの参加増進については、結果は様々だった。他国同様、英国も肥満や生活習慣病といった問題に取り組んでおり、コミュニティにおけるスポーツ参加において大きな変化はなかった。


東ロンドンにおける影響だが、オリンピックパーク周辺の不動産価格は2012年以降急激に高騰した。ロンドン全体でも不動産価格が3倍に跳ね上がったが、オリンピックパーク周辺の多くの地域で5倍近くに高騰した。同地域の人気が高まるとともに、アフォーダビリティが課題となり、既存のコミュニティの立ち退きをも招いている。


オリンピックは同時に、ロンドンにおける従来貧しい地域と富裕な地域の格差を縮め、バランスをとろうと試みた。これまでのところ、東ロンドンは他地域と比べ成長し、改善の一途をたどっている。


若い世代を鼓舞する件だが、確固たる結果はない。ただ若者の多くが大会に対して強い興奮を覚え、実際の携わり方も素晴らしかった。大会ボランティアの4分の1は、16歳から24歳で、国中の人々を刺激したのだ。


公園のサステナビリティについてだが、建設中に廃棄物はほとんど出ず、多くの資材は再利用されるか、きれいに片づけられた。公園は水管理の面でも効率的で、洪水に耐性をもつよう設計され、雨水を再利用・再生し手洗いや、公園中で灌漑に使用している。また通常の建築基準と照らし合わせてCO2排出量の大幅な軽減を達成し、また公園は生物多様性豊かな在来種の住処となっている。公共交通のアクセシビリティは優れており、電気自動車もすでに提供がはじまっている。これはロンドン全体でもすぐに普及するだろう。


最後に再びレガシーについてだが、長期にわたり影響をもったものといえば開会式だ。そこで世界と英国中に全く異なる英国のイメージ、すなわち農村部の伝統や都市文化、産業革命、NHSの創案、インターネットの誕生、現代の英国が誇るものの数々が紹介された。これは英国の人々に多くの感動を与えただろう。


ライブインタビュー

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山嵜

プロジェクトリーダーとしてのご自身の経験と役割を踏まえ、現行のレガシープランをどう評価するか?


ブラウン

いまのところ順調だと思う。だが行政が当初から競技場のサッカースタジアムへの改修費用を出資するという決断を2006年に取り消していなかったら、より望ましかった。これは確かに物議を醸す選択で、報道機関はテナントを確保する前にスタジアムを建設することに疑問を呈しただろう。しかし決断を覆さなければ、多額の金と時間を節約できたはずだ。
だが結果的に、非常に優れたランドスケープと堅調な会場施設が生み出され、東岸は急成長している。長期にわたる財政的持続可能性など課題はある。運営費を毎年改修しなくてはならず、これはアルセロール・ミッタル・オービット(ArcelorMittal Orbit)の収益性を考慮すると特に困難だ。


山嵜

住宅地から文化教育地区への計画変更についてどう考えるか。


ブラウン

従来の商業的観点を除けば、あらゆる面で素晴らしいと思う。新しいタイプの商業的な公共拠点がオリンピックパークに生じるのは、非常に良いことだ。
実際に「もの」があると、訪問者をその地域に引き寄せることができる。私が常々描いてきたビジョンのひとつは、観光客がロンドンに数日滞在する際、展覧会やコンサート、フェスティバル、あるいは芝生でのピクニックなど様々なアトラクションを目当てにオリンピックパークに日帰りで終日滞在するようになることだ。


山嵜

オリンピック大会やレガシーのような大規模プロジェクトにあたり、より強く明確なビジョンを生み出すには何が必要か?


ブラウン

招致チームは非常に卓越した働きぶりで、IOCの交渉過程について熟知したスタッフがおり、また市行政の干渉は薄かった。我々は再生と変化、そして大会に参加するアスリートたちに最高の経験をもたらすべく、明確なコミットメントを目標に掲げていた。
他の開催都市とロンドンが異なる点は、東ロンドンを変貌させるというビジョンを掲げたことだ。このビジョンに対するロンドン市長の並々ならぬ支援も、最終的に票を集めるうえで功を奏した。


山嵜

オリンピックレガシーのような大規模プロジェクトを実践するうえで重要なのは、力強いリーダーか、それとも有能なチームか?


ブラウン

政治的リーダーシップにおいて興味深いのは、異なる政党の間でも途切れなくはたらくことだ。ケン・リヴィングストン市長もボリス・ジョンソン市長も、個々の仕事にふさわしい人を採用し、無駄に細部にわたって管理することなく、彼らが任務を遂行できるようにした。
例えば、オリンピック会場設立委員会(ODA)設立の際に、シドニー大会で選手村を手掛けたデヴィッド・ヒギンズを採用し、彼にかなりの自由を与えた。彼は熟練した建設マネジャーであり、早期に大幅な予算見直しを行った結果、資金は30億ポンドから90億ポンドへと跳ね上がった。自らのエゴをむき出しにしない、優秀なマネジャーたちが、与えられた役割を遂行し、これが大会開催に大いに貢献した。

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もう一点、ケン・リヴィングストン市長と文化・メディア・スポーツ相のテッサ・ジョウェルとの間に良好な政治関係が築かれていたことも好影響した。両者の関係は20~30年前のロンドン地方自治体時代に遡る。だが最も重要なのは、彼らが優れたリーダーであり、高いレベルの仕事をこなしたことだ。同様に、ODAにつとめる我々も公務員であり、請負業者や資金や資材の超脱に関しては細かい口出しはしなかった。
要するに、我々はマスタープランを自分たちで描いたり、施設を建てたりはしなかった。その代わりに、それぞれの分野や事業に精通した専門団体を引き入れたのだ。
権力者同士が互いに反目しあうよりも、プロジェクトに携わる皆が同意する指針や目標を設定する方がよほど大切だ。立場が上の人々が対立するのは、開催都市でよく起こることだが、そこからいい結果はなかなか生まれない。


山嵜

ロンドンオリンピック・パラリンピック組織委員会(LOCOG)のような大型組織で横断的なチームビルディングが必要な理由は?


ブラウン

我々が下した決断の一つが、ODAとLOCOGを同じ建物にいれることだ。これは非常に重要で、(過去の開催都市である)シドニーは行っていなかった。
シドニーは、組織委員会(SOCOG)とオリンピック調整公社(OCA、ロンドンのODAとほぼ同等でインフラ設備や会場を担当している)の間には議論が絶えず、やがて市は二組織を同じ建物に移設した。大会開催までわずか二年前のことで、その時点ですでに対立関係ができあがっていた。
ロンドン場合、ODAは2007~8年に設立され、組織の規模は計画、デザイン、建設といった作業が完了するにつれ縮小していった。時間の経過とともに、業務の大半は現場に移っていった。


山嵜

水泳センターのサイズを縮小するために、ザハ・ハディドとどう交渉したのか?


ブラウン

当時ODA設計・再生部門長で、現在クラウン・エステート(The Crown Estate)を率いる(編註:2019年12月で退任)アリソン・ニモが交渉をつとめた。第一の課題は、これは彼女の責任では全くないものの、センターが河と隣接しているために、防波護岸が屋根の重みを支える必要があったことだ。
センターの屋根の重量はかなりのもので、全ての重みを3本の支柱に分散させると、防波護岸を壊し、センター全体の支えを失う恐れがあった。このため、建物の重みを支える防波護岸をつくらなければならなかった。
実は水泳センターはオリンピック招致が実現しなくても、建設予定だった。いずれにせよ開発の一環で計画されており、IOCにロンドンのスポーツ振興に対する真剣さを主張するためでもあった。


山嵜

ここでオリンピックパークからキングスクロス駅に視点を移したい。なぜならキングスクロス駅も再開発の好例だからだ。オリンピックパーク地区開発に活かすうえで、キングスクロスの事例からどんな学びがあるだろうか?


ブラウン

キングスクロス再開発とそれを担当したArgentからは多くを学んだ。学びのひとつが、UALとの提携だ。UALは複数の異なる大学からなる大型機関で、オリンピックパークにはLCFが、キングスクロスには優れた芸術大学であるセントラル・セント・マーチンズが入居した。こうした背景を意識したし、早期に東岸に大学入居が決定したことは、この地域に活気をもたらすだろうと強く信じている。
もうひとつの学びは、彼らの開発に対する姿勢で、異なる土地の塊を売り払うのではなく、彼ら自身がマスターデベロッパーとしてふるまった。計画許可をもらうと、土地ごとに異なるパートナーと組んでベンチャーをはじめる。これこそがレガシー計画の異なるフェーズごとにとられた方法だった。土地を売却してコントロールを失うよりも、保持し長期的な利益を追求しようと思ったのだ。


質疑応答

質疑No.1

オリンピックはジェントリフィケーションを引き起こすことで知られる。見落とされた住民たちを組み込み、地域に根付いた歴史、芸術、文化を保持する計画などはあったのか?


ブラウン

それこそ東ロンドンにおける課題だ。我々は地元住民がパークでの雇用機会にアクセスできるように最善を尽くした。いずれのレガシー施設においても高い度合いの地域雇用がある。見落とされた住民たちへの言及があったが、最も有効的だったのは、地元のバングラデッシュ人のコミュニティから、人々―特に若年層の女性たち―を、建設業見習いとして雇用したことだ。
オリンピック大会後は、東ロンドンにオリンピックパークがゆるやかになじんでいくプロセスが必要だ。10年かけてオリンピックパークがなじんでいき、東ロンドンの都市構造の一部になっていくのだ。道を歩いていて、気づけば公園に入っていた、というイメージだ。
ハックニーウィックなどの地域では、家賃の高騰により追いだされてしまった人々もいる。この地域は、豊かな文化とアーティストの集積があり、地域ならではの個性を保っており、多くの地元住民は未だ土地にのこっている。ジェントリフィケーションの恐れはあるが、むしろ地元住民がより豊かになり、かつ公園での雇用機会にアクセスできるのが一番だ。


山嵜

「Here East」についてより詳しく説明してほしい。


ブラウン

「Here East」は同地域から様々な特性を引き出そうとしている。風変わりなところだ、なぜならオリンピックパークの片側にはハックニーウィックがあり、独創的でスタイリッシュなアーティスト工房やクラフトビールの醸造所があつまっており、もう一方ではウェストフィールドの巨大なショッピングモールが立地している。こうした異なる性質を両脇に備える地域にあるからこそ、オリンピックパークがその格差を縮めるのだと思う。商業的でありながら、粗削りでとがったクリエイティビティも失わない。
もう一つの例はサドラーズ・ウェルズの移設だ。サドラーズ・ウェルズはクラシックバレエの劇団で、東ロンドンにストリートダンスやヒップホップなど伝統的なバレエ様式とは異なる、より地元に特化したダンス専門の劇場を開きたがっていた。

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質疑No.2

ロンドン大会は「あらゆる人のための大会」を標榜していた。しかし低所得層はより一層悪化した環境で暮らしている。こうした問題にロンドンはどう対処したのか。


ブラウン

オリンピックの影響は、複数の開催都市でコミュニティ全体の転居を余儀なくした。しかしロンドンでは、ほとんどの人がそうした影響をうけなかった。
当時の五輪担当大臣だったテッサ・ジョウェルは、どんな人にもチケットが手に入るように価格付けすることを重視した。また地元学校に割引価格で提供したり、パークチケットを供給し、公園だけ気軽に訪問できるようにした。人気チケットは高額だったが、一方で会場が満員になり、かつ人々が会場でロンドンの多様性を感じられるように尽力した。
もう一つの心配事は、大会直前に家主たちが賃借人を住居から追い出し、大会に合わせて観戦客に貸し出すことだった。現行法上こうした行為を阻止することはできなかったのだが、結果的に彼らが思い描くほど利益を生むことはなかった。人々は高い家賃を払いたがらなかったし、ホテルの部屋数は十分にあったからだ。
総じて、ロンドン大会はあらゆる所得層の市民にも楽しんでもらえる大会となった。全ての人に開かれた大会、という感覚があったように思う。それが東ロンドンにも前向きな効果を持ったとしたらよいのだが。


山嵜

つまり住宅開発の観点でいうと、アフォーダブル住宅の供給が十分あるのだろうか?


ブラウン

特別住居がとりたてて安価なわけではない。しかし「London Living Rent」という新しい借地借家権が成立し、これによって地域の平均収入に基づいた価格が設定されるようになった。
サディック・カーン市政では、市長の就任以来、アフォーダブル住宅は最優先事項となっている。そのためアフォーダブル住宅数は増加している。新しい住宅のうち50%はアフォーダブルにすることを目標に、今後大きな効果を生むだろう。


質疑No.3 山嵜

オリンピックに関わる開発は、湾岸地区に対する意識をどう変えたか?こうした変化は東京の湾岸地区にものぞめると思うか?


ブラウン

会場は河岸からは少し離れているが、確かにロンドンの河川地域の印象を変えた。人々にこの地域の近接性と価値を気づかせたし、ひいては地元界隈の魅力を人々が見出すようになった。これによりロンドンとストラトフォードの副都心を生み出すこととなった。
東京に関してだが、素晴らしい競技施設が建設されている。今後の湾岸地域が、スポーツ、あるいは工業と商業の複合体、あるいは住居など、計画がまとまっていくなかで、どういった用途に使われていくかによるだろう。

質疑No.4 山嵜

再開発を目的としていたロンドンに対し、東京は既存施設の再活用を狙いとしている。東京ではインフラ整備のレガシーが少ないせいか、社会やコミュニティベースのレガシーへの取り組みが聞こえてこない。故に市民がオリンピックを歓迎する雰囲気も未だ醸成されていないように感じる。これから東京が取り組めることはあるか。


ブラウン

東京大会について非常に興味深い点がある。私が思うに前回大会の会場を再利用するのは、2020年の東京大会が初めてではないだろうか。今回再利用される国立代々木競技場は素晴らしく象徴的な建造物だ。
ロンドンにおけるサステナビリティだが、概して新しい建造物は特段サステナブルではない。古い建物を再利用するほうがよりサステナブルだ。だからこそ東京都心の会場施設を再利用するとともに湾岸地域に新しい施設を建てるほうが、ずっと好ましい。
ロンドンではレガシー開発公社が2010年までなく、2012年にようやく正式に設立された。大会が間近に迫り、まもなくレガシーについて考えるには手遅れとなるだろう。とは言え、大会開催までまだ機会もある。すでに新しい常設会場のほとんどは建設されているし、東京都庁もすでに計画を始めていると思う。


閉幕

市川宏雄

そもそもロンドンは弱者救済、ソーシャルインクルージョンというのを看板にして、具体的に最も遅れた東ロンドンのストラットフォードを変えるという目的があったので成功したのだろう。
今日の話で分かることは、ストラットフォードの開発、クイーン・エリザベス・オリンピック・パークのおかげで、あのエリアは確かに変わり、なおかつロンドンも変わっている。それが既にレガシーと言えるだろう。
ロンドンと東京の結びつきに関しては、もともと1980年にはじまった東ロンドン開発が、東京臨海の開発の背景にある。その後、1995年の都市博中止で進まず、大きな変革はなかったが、今回のTOKYO2020を契機に再び脚光を浴びた。
少なくとも湾岸地域はスポーツの祭典だけではなくて、これからの東京の都市構造の要にあり、東京のこれからに関わってくると思う。